主観と客観再び

もやもやする。

言葉を当てはめることで、もやもやしたことにとりあえず枠組みを与えることができる。だけどその時に感じる違和感てなんだろう。


喪の過程、といわれるものについてもそうだ。自分の状態を本で読んで、後付けでああそういうことだったんだと納得することはある。外からの知識でしょう。でも日常的にしてるのは、なんだろうなんだろうと思いながら生活してるだけだ。


この差に、どうしてこんな違和感があるんだろうか。教科書を読みながら思ったこと。めも。

ことばの実態

毎日つかってることばには、言った瞬間に映像や匂いが付随してくる。
慣れ親しんでないことばだと(私にとっては)ただの文字列だったり、人によってはことば=文字じゃないかもしれないけど、とにかく記号でしかない。でもその場合ですら文字列っていうとなんか無機質、つまり(私の感覚的には)冷たいとか、なぜだかパソコンとか連想する。そう、連想するんだ。


経験を通じて、それまで無機質だったことばから連想する色形匂触感が変化する。ひとによっては、ことばじゃないかもしれないね。手話を使うひとは、しぐさに対する意味づけが増えるのかな。

そう何回も感じたくない連想が混ざってしまうこともあって、それがトラウマとか思い出したくない記憶になるのだろう。連想の範囲を超えて身体も反応するのがPTSDなんだろう、とざっくり理解した。


研究について、個人的には弔いの意味を込めたくて、研究としては、この連想の機構について哲学的・抽象的にではなくて、経験的に記述したいと思ったんだ。ヒトが認知できるインパクトの大きさ・種類は限度があるから吊り橋効果があるので、なら記述できるんじゃないかしら。


勘違いしたんだとかこの人のこの感情とこの感覚は一緒、とか判断するのは第三者で、本人にとってはそのときの真理って言えるのかな。


やろうとしてることと矛盾するけれど、こういう事に関する観念を系統だててぎゅっと学びたい。1年くらい。きっと誰かが考えたことのあることなんだ。同じ考えも環境が変われば意味も変わるはず。論文強化期間は年度末まで続く。

オタクの重要性

教科書の著者のひとりが、一昨年一緒に死生学の講義を受けてた人だった。そこでは、社会学や心理学の学生が集まって、質的研究法の背景となってる古典を輪読してた。内容について話し合うのが(まあ、当時は聞く方が多かったけど)面白かった。

先生が、オタクだったんだんだな。古典に対する熱意が学生に伝染して、共有されてた。5、6人の参加者のうち、一人はフクシマ論の人で、もう一人は今日読んだ教科書を書いていた。熱意だね。知りたいことを追求せざるを得ない体質というのか、追い求めながらキラキラしていて、学問の権威とか意味がどうとか言われてても、そういう人を目の当たりにして、学問は続くなあと思った。

前にも書いたような気がする。でもこういうのは、思い出すたびに書いておきたい。この先に何があるんだろう、もっと知りたいって気持ちを新鮮にしておきたい。あ、ときどき、いつもわくわくしていたいって言う人がいるのは、こういうことなのかな。

オタクで素敵な先生は残念ながら異動されてしまったけれど、あのがち人文学の講義を見つけられた幸運、次はどんなのが来るかな!

ひねくれ心摘出

審査の先生はきちんと指導してくれる人がいい。
合格するのは難しいだろうけど、あとで投稿することを考えたらそうした方がいい。

そうだ、その通りだ。
楽な方がいいかな、とちょっと思ってたことを恥じよう。どきどきする。記録メモ。

出張の感想

たまたま一緒に行った同じ分野の先生は、非常にしっとりした会でしたね、と評価していて、その言葉を今反芻している。

しっとり。

からっとした会ってどんな会かしら。同じく、「思いを汲み取った研究をしてください」ってコメントもあった。汲み取ること。共感することとは違うのかしら。

手前みそだけれど、質問されると考えを整理できたって感想を頂くことが結構あると、それってちょっとは役に立ってるよね、と思う。まあ、今まで考え方が似てる人達の話を中心に聞いてきたからそうなれたのかもしれなくて、今度、考え方が違う(私が聞いて違和感を感じる考え方の)人達をリクルートし始めます。私は一体どういう考え方にこだわっているのだろう。今の手法は使いにくい部分もあるけれど、研究するのと一緒に自分のことも分かっていく感じが楽しい。

引越してから毎日1時間歩くようになった。そして疲れた笑。大前研一が言ってた、住む場所と時間配分(とつきあう人たち)を変えるっていうのを実行してみた。でも付き合う人たちは、そうそう変えたくないし。

なんかそれにしても、疲れた、と言いにくい。
2月は論文強化月間にしてる。いいことだわ。がんばる。

青春

最近下の年代が元気だなと感じることが増えた。ほとばしるような生命力とかそういう表現を理解できるようになってきた。

高校生の頃から、漫画やポップミュージックの主人公は大半が10代なことを不思議に思っていた。その人たちが30代や40代になったらどうするんだろうと思ってた。あれは、その年代を終えた人たちが書くからなんだな。渦中にいると気付かないこと。

余談だけど、史学の院生が50年経たないとその時代を正しく評価できないっていってたことも分かった気がする。その人にとっては、正しい=相対的な評価だったんだ。

直感

目を合わせても焦点が合わない。そういう直感は、信じた方がいい。だけど、動かない。近いからこそ。そういうもの。
しかも、ここに書いてるみたいにオブラートに包むと大抵のことは伝わらない。肌身に感じる深刻さの数分の一になる。


5年で2回会社を変わって、3社目に行ったところがすごく居心地がよかったのにすぐになくなってしまったし、転職が多いって、その人に何か問題があるんじゃないかって思われることが多いのかな。周囲のひとからどう思われてるか怖がってる気がする。でもきっと聞かれたくないだろうから聞かない。


いつか精神的に崩壊するんじゃないかと思うんだよね。苦しいんだと思う。それくらい分かるつもりだけど、お互い言わない。なにそれプライド?


人生をゲーム化するのは、さびしかったからみたいだし、それは性格的にとても納得がいく。わざときたない部分を見せて、相手を試してる。甘えてる。弱さであって、単に嫌だとか排除すればいいってものでもないし、ある種の優しさでもある。こういうのをみると、人間関係って相性だなって思う。

崩壊してどうなるか分からない。そういうのが、内に向かうのかも、外に行くのかも。実際何かが起こるって全体からみたらとても低い確率なのに。身近になると、何かが起こっても、それはそれで仕方ないのかなって思うよう仕向けて自己防衛するんだよね。必至で止めるとかできないと思う。


ある意味で”不幸”のハードルが下がるんだと思ったけど、そうじゃなくて、元々何か起こりやすい状況で、たまたま出くわしたからハードルが下がったように感じただけって可能性のが高いか。


暗い話題ってあまり人に言えなくて、でもどうにも一人で呑み込めなくて書いてみた。


こういうの、嫌いだっていいながら言いやすいひとがいる。たぶん、他のひとよりも聞きなれてるからか、話したくなるんだよ。それも、慣れてること、ハードルが下がること、やっぱり慣れのが近いかもしれない、の一つの例だと思う。魅力のひとつだと割り切れたら、強みになるね。嫌いなら仕方ないね。


じゃね